スーパー校長先生がきた。

学級崩壊は深刻な問題です

次男とスーパー校長先生とは一度も会ったことがありません。

私は定期的に校長先生とはお会いし、子供の近況や先の見えない状況をお話ししました。校長先生はいつも

「トライ&エラー」ですよ。

といつも励ましてくれました。

小学校卒業時、校長先生からお手紙をいただきました。

当時の次男は、入院する前で幻聴、幻覚がひどく、部屋から全くでれない状態でした。

校長先生から手紙をもらったことは伝えたのですが、読む気力がありません。

私はいつか、渡すタイミングがきらた渡そうと思っていました。

そして特別支援学校の中学部を卒業した時、渡しました。

「小学校卒業した時の校長先生の手紙や、読んでみて」

次男は一度も会ったことがないので「?」という感じでした。

「いい校長先生やったよ。最後まで心配してたし」

次男は読み終わると

「本当や。この手紙もらっていい?」

自分のリュックの中にしまいました。

このような事が書いてありました・・・・・抜粋です。

「逆風も、振り返れば追い風になる」

人生にはいろいろな事があります。

風当たりが強く、なかなか前に進めない。自分だけが上手くいかず、周りから取り残されて苦しい思いをしているなどと感じることがあったならば、この言葉を思い出してほしい。

「どんなに辛くとも、自分の味方や進むべき方向に柔軟性をもたせれば、さっきまで逆風だった風も、一瞬にして追い風となり自分の味方になることもある」

よく悩み苦しみました。そしてよく自分の事を、家族のことを考えました。それは絶対に無駄な時間ではありません。いつの日か

「あの二年間があったからこそ・・・」

と思える生き方をすればよいだけです。焦ることも、慌てる必要もありません。誰の人生でもなく君の人生なのですから、君は、君のペースで進めばよいのです。

まずは、しつかりと療養をして、再び元気な心を取り戻してください。そして、この先のことを考えられるようになった時に、もう一度この手紙を読んでくれると嬉しいです。

では、読んでくれてありがとう。さようなら・・・

私、自身も励まされたのでした。

涙の卒業式。

次男は初めて卒業証書を手渡しでいただくことができました。

次男が通う特別支援学校の病院分校は「小学部」「中学部」「高等部」があり、病弱者・肢体不自由者を対象としています。全校生徒数は12名です。

卒業式は新型コロナウィルスの関係で、在校生や来賓もなし。

先生も関係者のみ。

式自体も簡略化して40分で終了予定です。もちろんマスクは全員着用。

卒業生は中学部は次男だけ。小学部1名、高等部2名の合計4名です。

次男以外は肢体不自由児で車いすを利用しています。

2月29日から突然の休校なってしまいましたので、久しぶりの学校です。

休みの間、

「卒業すると先生に会えなくなるからさみしい」と言ってました。

病気の時は「さみしい」や「たのしい」などの感情の表現ができませんでした。

じゃあ分校に戻る?」と私が聞くと、

「友達がほしいから、本校でいい」

先日、合格発表がありました。その後にすぐオリエンテーションがあり、おそらく生徒は30名ぐらいいたと思います。オリエンテーションの間も本人も落ち着いていました。病気になる前は友達もたくさんいて良く自転車で遊びに行っていました。

ひとりぼっちの期間が長かったので、以前のようであれば何よりも友達がほしいはずです。

特別支援学校ですが、高等部へ行くにも入試があります。入試の時も私も同行しましたが全くできなかったと言ってました。

次男は4年生から全く勉強をしていません。

中学部も「人に慣れる」ことを目的とし、ストレスがかからない勉強をしていましたので、できなくても当然なのです。ですが受かるかどうかとても心配していました。

先日の合格発表では大変喜んでいました。支援学校ですのでよほどの事が無い限りダメなことはないと思っていたのですが・・・

いよいよ、卒業式が始まりました。

小学部のあと、次男の名前が呼ばれました。

「はい」

大きな声で返事をしました。

校長先生の前へいき、お辞儀をして、卒業証書を受け取りました。

私は涙を流していました。

短い卒業式が終わりました。

先生方にも色々とお礼をしたかったのですが、病弱なお子さんや、呼吸器の関係でマスクのできないお子さんもいるので、早めに退散しなければなりません。

突然の休校もあり、もっとお礼をしたかったのですが、私は次男と先生方に深々とお礼をして二年間お世話になった学校を去りました。

これで、義務教育も終わったのか。

次男も頑張ったけども、父さんも頑張った。

運転をしながら、また目頭が熱くなったのでした。

精神科病院退院から施設の入所へ

特別支援学校の病院分校の体育館。中学部の卒業生は次男のひとりだけ

次男は小学校を卒業後入院しました。

その後、症状が少しづつ改善され二学期の後半から入院先の病院内にある支援学校の訪問中学部へ転校。

地元の支援学校の分校へ転校後は私の実家で過ごし通学する事になりました。

この支援学校の分校は病院に隣接をしていて、主に肢体不自由児の方が通学されています。

全校生徒は8名、次男の中学部二年生は次男一人です。

学校は行くものの、家に帰ると以前ほどではないですが荒れていました。

幻聴による暴言、ものを投げる、壊す・・・など

「また再現か・・・・・」

私の実家には私の父と母がおります。

私が仕事で不在の時は父と母が面倒をみてくれますが

次男の荒れように高齢の父母も限界でした。

再入院も何度も考えました。

ですが病院のケースワーカーの方も

「再度入院しても前にはすすみませんよ」

「大変だと思いますが頑張ってください」

と、いうとこはわかるのですが、現実問題、実家で次男と暮らす事は難しく

どうしたらよいのか・・・

ある日、父より電話がありました。

「暴れて手の付けようがない。今すぐきてくれ」

実家に戻ると大変なことになっていました。

戸が破壊され、物が散乱、障子はビリビリ

もうめちゃくちゃでした。

「一時保護しかないな。」

以前相談した、児童相談所に連絡し一晩相談所で過ごしました。

こんなことが何回かつづきました。

これでは私ももたない。

地元の精神病院で大人と一緒に入院させるか・・

私も精神科に通っていて、処方してもらった薬も強くなっていました。

児童相談所より、ためしに障がい者入所施設で短期入所をしてみますか。

すぐ返事をしました。

障がい者入所施設の方は

「何か問題をおこしたらすぐ精神科で隔離します」

厳しい言葉でした。

「分かりました。」

当初は入所施設で少々荒れたこともありましたが、他の利用者に迷惑をかけることもなく、気持ちの波はあるものの比較的落ち着いて過ごせました。

ただし障がい者入所施設を一か月に利用できるのは15日までです。

「落ち着くと家に戻る。」

「支援学校にいくと不安定になる。」

「障がい者入所施設で短期利用する」

その繰り返しでした。

6月になると障がい者施設の方から

「落ち着いて過ごせるようですので入所しましようか?」

本人もこの環境で過ごす事に自信がでてきたようで、入所をしながら支援学校に通うこととなったのでした。

つづく・・

次男は「統合失調症」

入院当日、玄関の桜の木は満開でした・・。

今日は次男の中学部の卒業式でした。

とても天気が良い日でした。

この日を迎えることができるとは数年前までは考えられませんでした。

思えば・・・・

小学校3年生ぐらいから次男の学年は学校内でも目立っていました。

いわゆる「学級崩壊」をしていました。

二人の児童が特ににひどく、4年生になると授業どころではありません。

また、その頃次男はいじめにあっていました。

気の強い次男はいじめらていたことを私たちに伝えていませんでした。

このことは今でも大変悔やんでいます。

2月に上級生4名から暴行を受けた事をきっかけに学校に行けなくなりました。

もちろん小学校の卒業式もでていません。

不登校になると次男は、

日に日に幻聴や幻覚がひどく、毎日暴れたり、暴言や暴力で家族も疲弊していました。

どのようにしたらよいのか?全く見通しがつきませんでした。

色々な病院の先生に診てもらいました。評判の良い先生がいると聞いたら何時間もかけて病院で診察してもらったり、あらゆる行政に相談したり、書籍やネットなど自分なりに調べたりと出来ることは手を尽くしました。

しかし家族が限界で崩壊寸前だったので色々考えましたが入院をさせることに決めました。

地元には、児童精神科の入院施設がないため隣県の国立病院へ入院させることになりました。

隣県といいましても、家より入院の病院までは車で3時間かかります。

小学生の次男を一人親元を離れ入院させるには抵抗がありました。

しかし当時の家族の状態としては

妻は次男の対応でうつに・・・

長男も自閉症スペクトラムでもともと不安定であり、攻撃的な次男には全く対応ができません。

私も次男の対応に疲れはて、精神科に通院中・・・

私一人、病院の近くに転職をして住むことも考えましたが、

入院する国立病院のケースワーカーの方が

「24時間体制でケアーしますから小学生でも大丈夫ですよ」

「遠方の方もいますし、他にも小学生いますから」

次男も最初は入院には抵抗していました。

「悪いから入院するんじゃないよ」

「病気を治す為に入院するんだから・・」

「早ければ二週間で退院できるよ」

イライラしながら次男は病院へ。

入院当日は病院の桜の木が満開でした。

毎週末にはくるから・・・

「やっぱり家にかえる!」

帰ろうとすると泣き叫びました。

看護師さんの指示のもと次男を振り切って帰りました。

その光景は今でも鮮明に覚えています。

そうして私が毎週末、泊りがけで病院へくる生活が始まりました。

不登校になって2年間。

入院が1年間。

支援学校に転校して2年間。

5年間あっという間でしたが、本当に色々な事がありました。

「出口がないトンネルは無いんだなぁ」

中学部・卒業

この日を迎えることができました。

つづく・・

誰もいない卒業式会場にて

(イメージ)コロナの為席の間隔もっと広いです

支援学校に着くと先生が玄関まで迎えに来てくれました。

 先生「無理でしたか・・・・

担任の先生には、長男も行けたら一緒にきます!

と伝えていました。

長男も行こうか悩んでいましたが

「就労支援の施設にいくことに迷いがでるかもしれない」

から来ないことを伝えました。

先生は悲しい顔をしていました。

高等部の一年生の時から三年間お世話になった先生

でした。気持ちの波が大きい長男の事を

いつも気にかけてくれたやさしい先生です。

私も先生になんと言ったらよいのか分からず、

「先生のことや学校が嫌じゃないので」

「次男の行事で学校にくる事があったら

 先生にも会いたいと言ってました」

と慰めにもならないような事を言ってしまい、後悔しました。

教室に先生とむかうと、

机が5つと黒板には、先生の手書きで

「卒業おめでとう」

長男へのメッセージ

「三年間陸上がんばったね」

涙がこみ上げてきました。

それもつかの間、大量の荷物を一度に持てず

三階の教室から駐車場まで三往復し

とても疲れました(笑)

教室に戻り私は先生に

「他の生徒さんにもよろしくお伝えください」と言うと

担任の先生は

「卒業証書も一緒にお渡ししますね。

明日来てもいいように、体育館のステージの上の机に準備してあるので」

と感謝をしながら、

一緒に体育館までいきました。

卒業する生徒の数は約30名

コロナの影響で

来賓席もなく

卒業生の席と保護者の席と若干名の先生方の席のみ

(保護者は卒業生一人につき一人までらしい・・)

一人づつの席の間隔が、体育館いっぱいに

離れています。

ステージまで行くと

    担任の先生 「卒業証書、読み上げましょうか」

    私「お気持ちだけで・・・」

やんわりと断りました。

私はステージの上から

誰もいない卒業式の会場を見渡し

長男の気持ちも分かってはいるものの

「卒業式でれればいいのになぁ」

複雑な気持ちになったのでした。

卒業式にはでれないけれど

誰もいない教室には明日の卒業式のメッセージが手書で・・・ちょっと切ないです

今日は長男と一緒に福祉センターへ行く日です。

就労支援B型の施設を利用する説明を受ける為です。

就労支援B型とは正しくは就労継続支援B型といいます。

年齢や体力などの面で雇用契約を結んで働くことが困難な方が、

軽作業などの就労訓練を行うことができる福祉サービスです。

以前は日中は外へ出ることができませんでした。

本人の中で

「学校に行かない罪悪感」

があり人と会うのを避けていました。

でも卒業が近くなるにつれ、以前は頓服の

リスペリドン( 抗精神病薬 )を一日の上限まで飲んでいましたが

卒業式が近くなるにつれ、薬の量も少なくなってきました。

11月より、不登校の長男ですが、

学校側はいつ来てもいいように

荷物など必要な学品はそのままにしてもらってます。

しかし、いつまでもそのままにしていただくこともできないので

卒業式の前日にいままでのお礼を兼ねて、長男の荷物を

取りに行く事にしました。

荷物を取りに学校へ行く日と

福祉センターへ行く日を合わせて

調子が少しづつ良くなってきた長男に、

「福祉センターの帰りに、学校に行ってみるか?」

打診してみました。

長男は少しなやみましたが、

「就労支援施設に行く気持ちが下がるかもしれないからやめておく」

私も

「学校にはいきたいけど行けない」

「卒様式に出たいけどでれない」

気持ちを分かっているのでそれ以上の事はいいませんでした。

福祉センターへ行った後、長男を家に送り

私一人で卒業式を明日に迎えた

特別支援学校へ荷物を取りにいきました。

(一人で荷物を持って帰れるかと・・・・)

学校には、もういかない。

    長男の課題・・・・・・・

長男は昨年の11月から不登校になっています。

今、ひきこもっている長男は

5歳の保育園の時に発達障害(自閉症スペクトラム)

と診断されています。

(この時のエピソードはまた後日)

発達障害の長男の苦手な特徴を簡単にいうと

「自分の気持ちを伝えることが苦手」

「人と接することが苦手」

「マイナス思考」

本人も自分の事を「心配障がい者」というくらいです(笑)

3月に支援学校の高等部を卒業します・・・・が、

「学校には、もういかない」

と言っています。

中学生の時も卒業まじかに、

二か月くらい不登校になりました。

思い当たることはあるのですが、

特に人生の転機になると、色々悩むようなのです。

長男は小学校の3年生までは普通学級。

4年生からは支援学級で過ごし

中学校も支援学級でした。

その後、特別支援学校に進学しています。

中学校の時は卒業直前で不登校になったのですが

最後は学校にいきました。

でも卒業式はでませんでした。

卒業式は校長室でしてもらい、卒業証書を手渡しでもらいました。

現在の高等部では、

「学校にはもう、いかない」

と言っていますし、

もちろん卒様式もでません。

長男は外出もほとんどしないので家でひきこもっています。

ただ、ひきこもっているだけでなく

本人も悩みや不安から

二階の部屋で暴れたり、大きな声をだしたりと

精神不安定になります。

私の基本スタンスは、

「今までよく頑張ったな」

「行きたくなければ、いかなくてもいいよ」

「行きたくなったら、行けばいいさ」

で、あくまでも「無理はさせない」のですが

(かかりつけのドクターの指示も同じです)

でも、親としての願望が

「そこまで悩まなくても・・・」

「学生最後くらいはけじめとして学校にいってほしいな」

という思いがちょこちょこででてきてしまうだめな親です。

「不登校は背中を押してやった方がいいんじゃないの」

という人もいますが、

不登校よりも一番心配しているのは

「二次障がい」なのです。

これは次男の時に、大変家族が苦しみました。

二度とない、学生生活を後悔しないかは心配ですが

これからの人生が長いのです。

長男は「卒業すればがんばれる」と言っています。

就労支援B型を利用しますが

行けるかどうかわかりませんが

焦らず、無理をさせず。

こどもを信じて見守るだけですね。