統合失調症防備録㉓「ADHDは被害者・加害者になりやすい?」

カーテンは締め切り真っ暗にしていました。

翌週も次男は学校へ行くことができませんでした。

担任は「短時間でも」と言うのですが、外へ出ることも抵抗しました。

学校の話をすると嫌がり、イライラが強くなり、キレてしまうことがしばしばでてきた時期です。

私はこの時点でで、「このままだと、ひきこもりになってしまわないか」

とても心配をしていました。

来月から新年度で5年生に進級になります。

登校できるタイミングは区切りの新年度だと思っていました。

「新たにスタートができなければ、登校も難しいのではないか?」

と親としても焦りもありました。

「次男が自主的に学校に行けるようになるまで待つ方が良いのか?」

医師に聞いたところ、

「怒らない程度に学校に行く話はした方が良い」

とのことでした・・・・・。

ここで、イジメについてもう少し考えてみたいと思います。

「ADHDの子供は、いじめの被害者にも加害者にもなりやすい」

という事を聞いたことがあります。

次男の場合は言葉や暴力、仲間はずれにされました。

不安が強く、恥ずかしがりで、社交性が低いのでいじめの被害を受けやすかっのかもしれません。

ただ暴行を受けるまでの次男はいじめる側でした。

イジメというよりは「ちょっかいをだす」「意地悪をする」という表現の方があっていると思います。

クラスの問題児のA君、B君も上記の表現に置き換えた方が、確かにそうだなと思います。

次男は「ソーシャルスキルトレーニング」を始めたばかりでした。

学校側の見極めは難しいところではありますが、こういった衝動性を抑えるための支援が「発達障害やグレー」な子には、もう少し早い段階で必要にだったのかもしれません。

統合失調症忘備録㉒「不登校の始まり」

不登校・ひきこもりは充電期間です。

私はイジメの真意を知りたかったので、電話で担任に事の成り行きを話し、改めて学校へ向かいました。

暴行を受けた事実はありましたが、次男も最近は上級生や同級生とトラブルがよくありました。

次男も悪い部分があったのかもしれません。

 学校の校長室で校長・教頭と担任とでの話し合いをしました。

私はPTAの本部役員を2年しており、学校の行事などで直接校長、教頭と良く話しをよくしていました。

普通は親と担任のラインのみだと思いますが、この点はPTA役員をやっていてよかったのかもしれません。そのかわり次男について苦言も良く言われましたが・・

担任は事前に暴行をした4名から話しを聞いていてくれました。

主犯格の子供は、次男がぶつかってきたと言い、蹴った。そのうち面白くなった。

そのほかの子供は、以前に文句を言われた事への仕返し、生意気だったからなど。

特にこれはという原因はないようだった。

次男は個別授業をしていたり、トラブルなど先生にも目をつけられていましたので、良くも悪くも目立った存在だったかもしれません。

担任はそれぞれの児童の親へ連絡をするとの事だった。

 今までは次男がトラブルを起こすと学校から連絡があり、私はお詫びをしたり迷惑をかけた家庭に伺ったりしていました。

しかしイジメが起きてしまった以上、親のお詫びとかはどうでも良いことで、これから次男の心のケアをどうしていくのか?

 学校については親は何もできないので、とにかく学校に再発しないよう、目をかけていただくようお願いをしました。

担任の先生は夕方、直接次男に会いたいと言い、家を訪問しました。

担任の先生はやさしく

「安心して学校で勉強できる事を約束するから、大丈夫」

そして、打撲のあとを見せ明日は学校にくる約束をしました。

 よく朝になると「今日も休ませてほしい。」

イジメのトラウマがあるのでやむえない部分もあります。

あまり学校のの事は言わないようにしていました。

イジメた子達は近所の上級生なので、家にいることもトラウマやフラッシュバックにつながると思い、私は30分ほど離れた実家に気分転換に連れて行きました。

そうして1週間学校t校を休みました。

決まって学校に行く前日は「明日は学校に行く」と言いますが、朝になると休ませてほしいの繰り返しです。

担任の先生も夕方なるとに毎日家に訪問にきてくれました。

週末になると「来週は学校に行く」と担任と約束をしました。

しかし、翌週の月曜日の朝になると「学校を休ませてほしい」

家では、漫画を見たり、ゲームをしたて過ごしています。

私は夜、気分転換のドライブに誘いました。

学校に行き一週しました。

職員室は電気がついていますが、児童はもちろん誰もいません。

「中に入ってみるか?」と言い駐車場に車をとました。

駐車場に車をとめるものの、なかなか学校には入れず1時間程度駐車場で話しをしました。

誰もいなのですが、人の目を気にして入れません。

こうして3年弱の不登校生活が始まりました。

次男は「統合失調症」

入院当日、玄関の桜の木は満開でした・・。

今日は次男の中学部の卒業式でした。

とても天気が良い日でした。

この日を迎えることができるとは数年前までは考えられませんでした。

思えば・・・・

小学校3年生ぐらいから次男の学年は学校内でも目立っていました。

いわゆる「学級崩壊」をしていました。

二人の児童が特ににひどく、4年生になると授業どころではありません。

また、その頃次男はいじめにあっていました。

気の強い次男はいじめらていたことを私たちに伝えていませんでした。

このことは今でも大変悔やんでいます。

2月に上級生4名から暴行を受けた事をきっかけに学校に行けなくなりました。

もちろん小学校の卒業式もでていません。

不登校になると次男は、

日に日に幻聴や幻覚がひどく、毎日暴れたり、暴言や暴力で家族も疲弊していました。

どのようにしたらよいのか?全く見通しがつきませんでした。

色々な病院の先生に診てもらいました。評判の良い先生がいると聞いたら何時間もかけて病院で診察してもらったり、あらゆる行政に相談したり、書籍やネットなど自分なりに調べたりと出来ることは手を尽くしました。

しかし家族が限界で崩壊寸前だったので色々考えましたが入院をさせることに決めました。

地元には、児童精神科の入院施設がないため隣県の国立病院へ入院させることになりました。

隣県といいましても、家より入院の病院までは車で3時間かかります。

小学生の次男を一人親元を離れ入院させるには抵抗がありました。

しかし当時の家族の状態としては

妻は次男の対応でうつに・・・

長男も自閉症スペクトラムでもともと不安定であり、攻撃的な次男には全く対応ができません。

私も次男の対応に疲れはて、精神科に通院中・・・

私一人、病院の近くに転職をして住むことも考えましたが、

入院する国立病院のケースワーカーの方が

「24時間体制でケアーしますから小学生でも大丈夫ですよ」

「遠方の方もいますし、他にも小学生いますから」

次男も最初は入院には抵抗していました。

「悪いから入院するんじゃないよ」

「病気を治す為に入院するんだから・・」

「早ければ二週間で退院できるよ」

イライラしながら次男は病院へ。

入院当日は病院の桜の木が満開でした。

毎週末にはくるから・・・

「やっぱり家にかえる!」

帰ろうとすると泣き叫びました。

看護師さんの指示のもと次男を振り切って帰りました。

その光景は今でも鮮明に覚えています。

そうして私が毎週末、泊りがけで病院へくる生活が始まりました。

不登校になって2年間。

入院が1年間。

支援学校に転校して2年間。

5年間あっという間でしたが、本当に色々な事がありました。

「出口がないトンネルは無いんだなぁ」

中学部・卒業

この日を迎えることができました。

つづく・・