旅行会社の新型コロナの影響

新型コロナウィルスで大打撃を受けています。

私は旅行会社に勤めています。主に団体旅行の営業をするプレーイングマネージャです。

学生の時から地理が好きで良く旅行にも行きました。知らない土地へ行き、うきうきする感じがとても好きです。

この仕事のいい事は、営業はある程度数字をだしていれば、仕事の時間配分を自分で決めれることです(私の会社だけかもしれませんが・・)

今まで家族も色々あったのですが、次男の病気に関してはデリケートな事だったので会社には伝えていません。

私は外回りが主体なので、営業を兼ねて子供の用事ができた事は大変助かりました。

もうひとつ、旅行会社に入って良かった事は、添乗員として旅行に同行できることです。旅行会社に就職したのはタダで旅行ができるという、よこしまな気持ちでした。

入社当初はタダでいろい色なところへ行けて楽しかったのですが、実際はお客様ありきなので、自分の好きなとこには行けませんし、主は営業なのでいつも数字に追われてばかりです。

家族が大変な時期は私も心労で大変だったのですが、添乗員として色々な場所に行くと気分転換できたり、温泉に入ってリフレッシュでいた点は良かったと思っています。

ただ添乗員として出る場合は家を空けてしまうので、それはそれで心配でしたが、家族がサポートしてくれました。私の両親や障がい者施設の方には大変感謝しています。

前置きが長くなりましたが、

当社が今の新型コロナウィルスの影響が極端に出始めたのは2月の上旬です。

一月下旬は中国の武漢でのコロナウイルスの蔓延に対して、団体旅行でも中国や日本でも春節で中国の方が多いところは気を付けて、マスクや手洗いなど気を付けましょう程度でした。

ところが二月に入り近々の二月~三月の旅行のキャンセルが相次ぎました。

いちばん敏感なのは教育旅行です。

私の地区は5月~6月が修学旅行のピークに入ります。

修学旅行の中止は子供たちにとってもありえないので、予定実行か?延期か?の二択になります。

ただ学校としては秋は行事が多いので予定通り実行したいのが本音です。

しかし延期にするにしても学校側としては、それぞれ修学旅行への思い入れやコンセプトがあり旅行日程の形を崩さないのが基本です。

ですので現状の日にちはそのままで、延期の場合に際して早く仮押さえをする必要があるのです。

それと中学校の場合はほとんどがJRを利用するのでJRは仮押さえができないので延期の場合は早めに決定をしなければいけません。

今現在は中学校はすべて秋に変更になりました。

小学校は仮押さえの段階でまだ様子をみている状況です。新年度早々には結論をだしていただくようお願いをしていますが、おそらく秋以降に延期になると思います。

3月の団体はすべてキャンセルになりました。4月以降もキャンセルが相次いでいます。

新型コロナウイルスは不透明な状況なので心配です。早期終息を祈るばかりです。

スーパー校長先生がきた。

学級崩壊は深刻な問題です

次男とスーパー校長先生とは一度も会ったことがありません。

私は定期的に校長先生とはお会いし、子供の近況や先の見えない状況をお話ししました。校長先生はいつも

「トライ&エラー」ですよ。

といつも励ましてくれました。

小学校卒業時、校長先生からお手紙をいただきました。

当時の次男は、入院する前で幻聴、幻覚がひどく、部屋から全くでれない状態でした。

校長先生から手紙をもらったことは伝えたのですが、読む気力がありません。

私はいつか、渡すタイミングがきらた渡そうと思っていました。

そして特別支援学校の中学部を卒業した時、渡しました。

「小学校卒業した時の校長先生の手紙や、読んでみて」

次男は一度も会ったことがないので「?」という感じでした。

「いい校長先生やったよ。最後まで心配してたし」

次男は読み終わると

「本当や。この手紙もらっていい?」

自分のリュックの中にしまいました。

このような事が書いてありました・・・・・抜粋です。

「逆風も、振り返れば追い風になる」

人生にはいろいろな事があります。

風当たりが強く、なかなか前に進めない。自分だけが上手くいかず、周りから取り残されて苦しい思いをしているなどと感じることがあったならば、この言葉を思い出してほしい。

「どんなに辛くとも、自分の味方や進むべき方向に柔軟性をもたせれば、さっきまで逆風だった風も、一瞬にして追い風となり自分の味方になることもある」

よく悩み苦しみました。そしてよく自分の事を、家族のことを考えました。それは絶対に無駄な時間ではありません。いつの日か

「あの二年間があったからこそ・・・」

と思える生き方をすればよいだけです。焦ることも、慌てる必要もありません。誰の人生でもなく君の人生なのですから、君は、君のペースで進めばよいのです。

まずは、しつかりと療養をして、再び元気な心を取り戻してください。そして、この先のことを考えられるようになった時に、もう一度この手紙を読んでくれると嬉しいです。

では、読んでくれてありがとう。さようなら・・・

私、自身も励まされたのでした。

学級崩壊

小学校卒業時、校長先生からいただいたことば。

私は次男が病気になる前からPTAの役員をしていました。

当時、次男の学年は、「学級崩壊」をしていました。

PTAへも保護者より苦情が来たため、何度か授業を参観しました。二人のお子さんにより授業ができない状態でした。

二人のお子さんは、授業中ウロウロするのは日常で、先生に関係ない事を話しかけたり、寝転がったり、水槽で遊んだり、騒いだりと・・それに何人かつられて他のお子さんも騒いだりとすごい状態でした。

一緒に参観した保護者の方は

「まるで動物園だ」

と言っていました。

担任の先生も授業ができないので完全無視をしていました。

ですが、ある日倒れてしまい、ノイローゼになってしまいました。

教育委員会の方が何度も来たり、個別授業をしたりしていました。

その中で何人かの他のお子さんに異変がでてきました。

そのうちの一人が次男です。日々イライラが強くなってきました。授業を受けたくないと出て行ってしまうこともしばしばありました。

授業を受けたくないというお子さんは数名いたのですが、あるお子さんは我慢ができず転校してしまいました。

PTAからも学級崩壊をしているお子さんの保護者にもお願いをしたのですが、一人のお子さんが学校のせいの一点ばりで、全く受け入れず手づまりになっていました。

今思うと保護者の方もどうすればいいのか分からなかったと思います。

学校側もデリケートな問題なようで、そのお子さんを別授業にするなどできないようです。

私は長男が発達障害なので、自分なりに勉強していました。

「おそらく、ADHDなんだろうな」

ADHDとは注意欠陥多動性障害の事です。

障がいのの一つで本人が悪いとか、保護者の育て方が悪いとかではないことも分かっていました。

ですが、学校も校長先生も、PTAもどうしたらよいか分からず一日一日が過ぎていってしまいました。

PTA会長がある日、

「来年、スーパー校長がくるんだって」

教育委員会にいる先生なのですが、学校がピンチ?の状態になると学校に派遣される校長先生の事だそうです。

私たちは、スーパー校長に期待していました。

ですが、新年度になる前の3月、スーパー校長先生がくる寸前に、次男は上級生から暴行を受けて不登校になってしまうのでした。

つづく・・・・

涙の卒業式。

次男は初めて卒業証書を手渡しでいただくことができました。

次男が通う特別支援学校の病院分校は「小学部」「中学部」「高等部」があり、病弱者・肢体不自由者を対象としています。全校生徒数は12名です。

卒業式は新型コロナウィルスの関係で、在校生や来賓もなし。

先生も関係者のみ。

式自体も簡略化して40分で終了予定です。もちろんマスクは全員着用。

卒業生は中学部は次男だけ。小学部1名、高等部2名の合計4名です。

次男以外は肢体不自由児で車いすを利用しています。

2月29日から突然の休校なってしまいましたので、久しぶりの学校です。

休みの間、

「卒業すると先生に会えなくなるからさみしい」と言ってました。

病気の時は「さみしい」や「たのしい」などの感情の表現ができませんでした。

じゃあ分校に戻る?」と私が聞くと、

「友達がほしいから、本校でいい」

先日、合格発表がありました。その後にすぐオリエンテーションがあり、おそらく生徒は30名ぐらいいたと思います。オリエンテーションの間も本人も落ち着いていました。病気になる前は友達もたくさんいて良く自転車で遊びに行っていました。

ひとりぼっちの期間が長かったので、以前のようであれば何よりも友達がほしいはずです。

特別支援学校ですが、高等部へ行くにも入試があります。入試の時も私も同行しましたが全くできなかったと言ってました。

次男は4年生から全く勉強をしていません。

中学部も「人に慣れる」ことを目的とし、ストレスがかからない勉強をしていましたので、できなくても当然なのです。ですが受かるかどうかとても心配していました。

先日の合格発表では大変喜んでいました。支援学校ですのでよほどの事が無い限りダメなことはないと思っていたのですが・・・

いよいよ、卒業式が始まりました。

小学部のあと、次男の名前が呼ばれました。

「はい」

大きな声で返事をしました。

校長先生の前へいき、お辞儀をして、卒業証書を受け取りました。

私は涙を流していました。

短い卒業式が終わりました。

先生方にも色々とお礼をしたかったのですが、病弱なお子さんや、呼吸器の関係でマスクのできないお子さんもいるので、早めに退散しなければなりません。

突然の休校もあり、もっとお礼をしたかったのですが、私は次男と先生方に深々とお礼をして二年間お世話になった学校を去りました。

これで、義務教育も終わったのか。

次男も頑張ったけども、父さんも頑張った。

運転をしながら、また目頭が熱くなったのでした。

精神科病院退院から施設の入所へ

特別支援学校の病院分校の体育館。中学部の卒業生は次男のひとりだけ

次男は小学校を卒業後入院しました。

その後、症状が少しづつ改善され二学期の後半から入院先の病院内にある支援学校の訪問中学部へ転校。

地元の支援学校の分校へ転校後は私の実家で過ごし通学する事になりました。

この支援学校の分校は病院に隣接をしていて、主に肢体不自由児の方が通学されています。

全校生徒は8名、次男の中学部二年生は次男一人です。

学校は行くものの、家に帰ると以前ほどではないですが荒れていました。

幻聴による暴言、ものを投げる、壊す・・・など

「また再現か・・・・・」

私の実家には私の父と母がおります。

私が仕事で不在の時は父と母が面倒をみてくれますが

次男の荒れように高齢の父母も限界でした。

再入院も何度も考えました。

ですが病院のケースワーカーの方も

「再度入院しても前にはすすみませんよ」

「大変だと思いますが頑張ってください」

と、いうとこはわかるのですが、現実問題、実家で次男と暮らす事は難しく

どうしたらよいのか・・・

ある日、父より電話がありました。

「暴れて手の付けようがない。今すぐきてくれ」

実家に戻ると大変なことになっていました。

戸が破壊され、物が散乱、障子はビリビリ

もうめちゃくちゃでした。

「一時保護しかないな。」

以前相談した、児童相談所に連絡し一晩相談所で過ごしました。

こんなことが何回かつづきました。

これでは私ももたない。

地元の精神病院で大人と一緒に入院させるか・・

私も精神科に通っていて、処方してもらった薬も強くなっていました。

児童相談所より、ためしに障がい者入所施設で短期入所をしてみますか。

すぐ返事をしました。

障がい者入所施設の方は

「何か問題をおこしたらすぐ精神科で隔離します」

厳しい言葉でした。

「分かりました。」

当初は入所施設で少々荒れたこともありましたが、他の利用者に迷惑をかけることもなく、気持ちの波はあるものの比較的落ち着いて過ごせました。

ただし障がい者入所施設を一か月に利用できるのは15日までです。

「落ち着くと家に戻る。」

「支援学校にいくと不安定になる。」

「障がい者入所施設で短期利用する」

その繰り返しでした。

6月になると障がい者施設の方から

「落ち着いて過ごせるようですので入所しましようか?」

本人もこの環境で過ごす事に自信がでてきたようで、入所をしながら支援学校に通うこととなったのでした。

つづく・・

次男は「統合失調症」

入院当日、玄関の桜の木は満開でした・・。

今日は次男の中学部の卒業式でした。

とても天気が良い日でした。

この日を迎えることができるとは数年前までは考えられませんでした。

思えば・・・・

小学校3年生ぐらいから次男の学年は学校内でも目立っていました。

いわゆる「学級崩壊」をしていました。

二人の児童が特ににひどく、4年生になると授業どころではありません。

また、その頃次男はいじめにあっていました。

気の強い次男はいじめらていたことを私たちに伝えていませんでした。

このことは今でも大変悔やんでいます。

2月に上級生4名から暴行を受けた事をきっかけに学校に行けなくなりました。

もちろん小学校の卒業式もでていません。

不登校になると次男は、

日に日に幻聴や幻覚がひどく、毎日暴れたり、暴言や暴力で家族も疲弊していました。

どのようにしたらよいのか?全く見通しがつきませんでした。

色々な病院の先生に診てもらいました。評判の良い先生がいると聞いたら何時間もかけて病院で診察してもらったり、あらゆる行政に相談したり、書籍やネットなど自分なりに調べたりと出来ることは手を尽くしました。

しかし家族が限界で崩壊寸前だったので色々考えましたが入院をさせることに決めました。

地元には、児童精神科の入院施設がないため隣県の国立病院へ入院させることになりました。

隣県といいましても、家より入院の病院までは車で3時間かかります。

小学生の次男を一人親元を離れ入院させるには抵抗がありました。

しかし当時の家族の状態としては

妻は次男の対応でうつに・・・

長男も自閉症スペクトラムでもともと不安定であり、攻撃的な次男には全く対応ができません。

私も次男の対応に疲れはて、精神科に通院中・・・

私一人、病院の近くに転職をして住むことも考えましたが、

入院する国立病院のケースワーカーの方が

「24時間体制でケアーしますから小学生でも大丈夫ですよ」

「遠方の方もいますし、他にも小学生いますから」

次男も最初は入院には抵抗していました。

「悪いから入院するんじゃないよ」

「病気を治す為に入院するんだから・・」

「早ければ二週間で退院できるよ」

イライラしながら次男は病院へ。

入院当日は病院の桜の木が満開でした。

毎週末にはくるから・・・

「やっぱり家にかえる!」

帰ろうとすると泣き叫びました。

看護師さんの指示のもと次男を振り切って帰りました。

その光景は今でも鮮明に覚えています。

そうして私が毎週末、泊りがけで病院へくる生活が始まりました。

不登校になって2年間。

入院が1年間。

支援学校に転校して2年間。

5年間あっという間でしたが、本当に色々な事がありました。

「出口がないトンネルは無いんだなぁ」

中学部・卒業

この日を迎えることができました。

つづく・・

「東日本大震災」に思うこと。

大川小学校「震災遺構」として保存することを決定されたそうですが・・

あれから9年経ったのですね 。

犠牲になられた方々のご冥福を心から祈り致します。

今はコロナウイルスで世界中が戦いに明け暮れていますが、こんな時に大地震など

が起きたらと想像するだけで恐ろしいです 。

昨年、東北大震災の視察旅行に添乗員で同行しました。

石巻市を中心としました視察です。

私も8年たった石巻がどのように復興しているのか、大変関心がありました。

宮城県北東部の三陸沿岸に位置する石巻地方は東日本大震災の震源地に最も近く、

6000人以上の方が犠牲になるほどの甚大な被害を受けた地域です。

以前たくさんあった仮設住宅の多くは解体され、主要な道路なども整いつつありました。

その中で大川小学校跡地へ同行しました。

大川小学校は3.11で大きな被害にあった場所で。津波で全校生徒の108名のうち74名(死亡70名、行方不明4名)と学校にいた教師11名のうち10名が犠牲となった学校です。

ここでは「語り部」の方のお話を聞かせていただきました。

「語り部」の方のお子さんもこの大川小学校で亡くなったそうです。

「ここにはいくつもの小さな命があった。救いたかった、救って欲しかった、救えたはずの命があったんだ。」

多くの語りに胸が痛くなりましたが、なかでもこの言葉が胸を突き上げた。

私は添乗員なので、お客様の後ろで聞いましたが、涙が溢れてきました。

震災は多くの人の人生を激変させ、一人ひとりが負った心の傷は、時間で埋められるものではないですね。

私も、子供の事で大変な事がいろいろありました。

「元気でいてくれたらそれでいい」

改めて思いました。

今、コロナ感染症が世界や日本を大きく揺さぶっています。

団体旅行も3月、4月はほとんどがキャンセル又は延期になってしまいました。

今は、耐えるしかないですが、必ず終息するはずです。

今できることをおこなって、がんばりましょう!

誰もいない卒業式会場にて

(イメージ)コロナの為席の間隔もっと広いです

支援学校に着くと先生が玄関まで迎えに来てくれました。

 先生「無理でしたか・・・・

担任の先生には、長男も行けたら一緒にきます!

と伝えていました。

長男も行こうか悩んでいましたが

「就労支援の施設にいくことに迷いがでるかもしれない」

から来ないことを伝えました。

先生は悲しい顔をしていました。

高等部の一年生の時から三年間お世話になった先生

でした。気持ちの波が大きい長男の事を

いつも気にかけてくれたやさしい先生です。

私も先生になんと言ったらよいのか分からず、

「先生のことや学校が嫌じゃないので」

「次男の行事で学校にくる事があったら

 先生にも会いたいと言ってました」

と慰めにもならないような事を言ってしまい、後悔しました。

教室に先生とむかうと、

机が5つと黒板には、先生の手書きで

「卒業おめでとう」

長男へのメッセージ

「三年間陸上がんばったね」

涙がこみ上げてきました。

それもつかの間、大量の荷物を一度に持てず

三階の教室から駐車場まで三往復し

とても疲れました(笑)

教室に戻り私は先生に

「他の生徒さんにもよろしくお伝えください」と言うと

担任の先生は

「卒業証書も一緒にお渡ししますね。

明日来てもいいように、体育館のステージの上の机に準備してあるので」

と感謝をしながら、

一緒に体育館までいきました。

卒業する生徒の数は約30名

コロナの影響で

来賓席もなく

卒業生の席と保護者の席と若干名の先生方の席のみ

(保護者は卒業生一人につき一人までらしい・・)

一人づつの席の間隔が、体育館いっぱいに

離れています。

ステージまで行くと

    担任の先生 「卒業証書、読み上げましょうか」

    私「お気持ちだけで・・・」

やんわりと断りました。

私はステージの上から

誰もいない卒業式の会場を見渡し

長男の気持ちも分かってはいるものの

「卒業式でれればいいのになぁ」

複雑な気持ちになったのでした。

卒業式にはでれないけれど

誰もいない教室には明日の卒業式のメッセージが手書で・・・ちょっと切ないです

今日は長男と一緒に福祉センターへ行く日です。

就労支援B型の施設を利用する説明を受ける為です。

就労支援B型とは正しくは就労継続支援B型といいます。

年齢や体力などの面で雇用契約を結んで働くことが困難な方が、

軽作業などの就労訓練を行うことができる福祉サービスです。

以前は日中は外へ出ることができませんでした。

本人の中で

「学校に行かない罪悪感」

があり人と会うのを避けていました。

でも卒業が近くなるにつれ、以前は頓服の

リスペリドン( 抗精神病薬 )を一日の上限まで飲んでいましたが

卒業式が近くなるにつれ、薬の量も少なくなってきました。

11月より、不登校の長男ですが、

学校側はいつ来てもいいように

荷物など必要な学品はそのままにしてもらってます。

しかし、いつまでもそのままにしていただくこともできないので

卒業式の前日にいままでのお礼を兼ねて、長男の荷物を

取りに行く事にしました。

荷物を取りに学校へ行く日と

福祉センターへ行く日を合わせて

調子が少しづつ良くなってきた長男に、

「福祉センターの帰りに、学校に行ってみるか?」

打診してみました。

長男は少しなやみましたが、

「就労支援施設に行く気持ちが下がるかもしれないからやめておく」

私も

「学校にはいきたいけど行けない」

「卒様式に出たいけどでれない」

気持ちを分かっているのでそれ以上の事はいいませんでした。

福祉センターへ行った後、長男を家に送り

私一人で卒業式を明日に迎えた

特別支援学校へ荷物を取りにいきました。

(一人で荷物を持って帰れるかと・・・・)

学校には、もういかない。

    長男の課題・・・・・・・

長男は昨年の11月から不登校になっています。

今、ひきこもっている長男は

5歳の保育園の時に発達障害(自閉症スペクトラム)

と診断されています。

(この時のエピソードはまた後日)

発達障害の長男の苦手な特徴を簡単にいうと

「自分の気持ちを伝えることが苦手」

「人と接することが苦手」

「マイナス思考」

本人も自分の事を「心配障がい者」というくらいです(笑)

3月に支援学校の高等部を卒業します・・・・が、

「学校には、もういかない」

と言っています。

中学生の時も卒業まじかに、

二か月くらい不登校になりました。

思い当たることはあるのですが、

特に人生の転機になると、色々悩むようなのです。

長男は小学校の3年生までは普通学級。

4年生からは支援学級で過ごし

中学校も支援学級でした。

その後、特別支援学校に進学しています。

中学校の時は卒業直前で不登校になったのですが

最後は学校にいきました。

でも卒業式はでませんでした。

卒業式は校長室でしてもらい、卒業証書を手渡しでもらいました。

現在の高等部では、

「学校にはもう、いかない」

と言っていますし、

もちろん卒様式もでません。

長男は外出もほとんどしないので家でひきこもっています。

ただ、ひきこもっているだけでなく

本人も悩みや不安から

二階の部屋で暴れたり、大きな声をだしたりと

精神不安定になります。

私の基本スタンスは、

「今までよく頑張ったな」

「行きたくなければ、いかなくてもいいよ」

「行きたくなったら、行けばいいさ」

で、あくまでも「無理はさせない」のですが

(かかりつけのドクターの指示も同じです)

でも、親としての願望が

「そこまで悩まなくても・・・」

「学生最後くらいはけじめとして学校にいってほしいな」

という思いがちょこちょこででてきてしまうだめな親です。

「不登校は背中を押してやった方がいいんじゃないの」

という人もいますが、

不登校よりも一番心配しているのは

「二次障がい」なのです。

これは次男の時に、大変家族が苦しみました。

二度とない、学生生活を後悔しないかは心配ですが

これからの人生が長いのです。

長男は「卒業すればがんばれる」と言っています。

就労支援B型を利用しますが

行けるかどうかわかりませんが

焦らず、無理をさせず。

こどもを信じて見守るだけですね。

児童養護施設で育った元AKBアイドル

     仲川遥香 さん

爆報!THE フライデー

【芸能人の衝撃事件SP&元AKBアイドル貧困問題】

児童養護施設で育った元AKBアイドルが海外で芸能活動をしていた!

これまで隠してきた衝撃の生い立ちをカミングアウト!

JKT48で活躍した仲川遥香 さんですが、

幼いころからお姉さんと児童養護施設で暮らしていたそうです。

インドネシアで活動中突然、

お姉ちゃんが子供3人を残して死んでしまったそうです

身寄りがない姉の子どもの為に、海外での芸能活動をやめて

日本へ帰国するかと 思いましたが、

「子どもたちを施設に入れて自分は海外で芸能活動をします」と宣言。

ちょっと驚きました。

「児童養護施設へ行くことは悪い事じゃない」

「養護施設で育った私でもアイドルになれるという夢を持ってほしい」

(確かこのようなことをいっていたと思います)

状況はちょっと違いますが、次男も障がい児入所施設にいます。

(この事は又改めて書きたいと思います)

幼児〜18歳までが過ごす施設です。

半分は障がい児ですが、半分は親がいなくて

天涯孤独な子たちも多いようです。

次男は入所して二年たとうとしています。

なにしろ人に対して不信感をもっていたのが和らいでいます。

人に対してやさしい気持ちも持てるようになりました。

次男も入所することで、

障がいを持ている子供や同じ境遇の子供と

共同生活をすることで色々学べたのではないか?

自分を見つめなおす事ができたのではないか?

分かりませんが、

家に落ち着いていることもできず

外に出ることもできず

まして学校にもいくことができない。

統合失調症という心の病ですが

少しづつ癒されていったのではないか?

そんな事を重ねてしまいました。